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『珠玉のことばたち』

8月15日に思うこと

戦争を知らずに育った僕であるけれど。
戦争を体験し、従軍し、戦った親を持つ者として、僕の子どもやその他の人々に語っておかなければならないことがある。
それは、

戦争の愚かさだ。

僕の父の話

私は、父から戦争の愚かさについて幼い頃毎日のように聞かされていました。
私の父は、大正三年1914年の生まれです。
丁度、桜島の大爆発があった年だと聞きました。

貧しかった生家は、学校へ行くこともままならず尋常小学校を出て間もなく軍隊に入れられたそうです。鹿児島の歩兵45連隊だったと思います。軍隊に入り間もなく二等兵から上等兵、狙撃兵、暗号兵となったそうです。
程なく、戦死通知が実家に届いたそうです。実は、戦死しているのではなく、民間特務機関として中国に渡ったそうです。徹底的な中国一般人になりすます訓練を受けたそうです。特に顔の洗い方の違いやトイレの処理の仕方などなど。時は、満州事変あたりの頃らしいです。戦死通知後軍が作ったお墓が今でも鹿児島にあります。父の青春は全くなかったのだと思います。16歳ぐらいから日本へ帰還する33歳(昭和22年)までの一番青春として人として楽しい時期を戦争に取られたそうです。(民間特務機関だったので軍人恩給もありませんでした。父の死の2年後、民間特務機関にも恩給が出ることになりましたが、遅かったです。)

戦時中、
「誰一人として、天皇陛下万歳」と言って死んでいった者はいない。みんな「かあちゃん、かあちゃん」と言って死んでいく
と父は、話してました。

戦争が本格化していき、内地から送られてくる兵隊はみな「死んでもらうために」やって来ており、負ける戦とわかっていても内地からどんどん兵隊が送られてくるんだと言ってました。突撃して倒れた場所が陣地になるのだと。

当時の参謀である牛島満は、父達部下に対し米国が参戦する以前から「この戦争は、どうやっても負ける。」と話していたようで、上層部の決定で軍人なので従わなければならないが、「負けるわかっている戦はしたくない。」というのが、みんなの共通した思いだったようです。現在の牛島満に関しての評価は良くありませんが、父が話していた生な彼というのは、大変穏やかで聡明な人物であったようです。愚かな戦争のために犠牲になる民間人(中国の民衆)を逃がしてあげたりしていたようです。今では、そんな美談も取り扱ってくれませんが、生前の父が話していたのは事実だと思います。彼の終焉の地、沖縄に向かう時にも敗戦は時間の問題だったので「死ンデキマス」とお話しなさっていたらしい。

戦争で弾に当たって死ねるのは、軍人として誇らしいですが、殆どの兵隊や一般人は、鉄砲で死ぬのではなく、餓死や病気だったようです。

「アナタノオ子サンハ、ゴ飯ガ、食エナクテ死ニマシタ。」
という報告はあまりにも不憫で出来なかったと聞きました。
戦死は、戦って死んだのではなくて、餓えや病気で死んだ人が大半なわけです。

二度とあのような戦争は、あってはならないといつもいつも父は、言ってました。
毎晩毎晩、戦争のことでうなされておりました。

『一緒に死のうと言い合った親友が夕方にはいない。』
こんな哀しいことはない、友人を殺した中国人がその時は、憎いけれど、それ以上に戦争をさせている自国の上層部が憎い。

父は、僕に「もし今度戦争が起きたなら、脚を折りなさい。腕を折りなさい。頭がおかしくなって欲しい。」「そうすれば、戦争に行かなくて済むからそうしなさい。」と口癖のように言ってました。

「戦争は、戦争を起こす人と戦争に行って戦う人は違うから、戦争に行ってはいけません。」と。

毎夜、戦争のことでうなされ、「水、水」と言って死んでいく親友や戦争の犠牲者の夢を見ている父をみて育ちました。

日本は戦争に負けた事実

負けるとわかっていた戦争が、やっと広島と長崎に原子爆弾が落とされて終わりました。
ポツダム宣言をして、無条件降伏しました。

完膚無きまでにのされてしまい、無条件に降伏したのです。
戦争に負けたのです。

僕は、幼い頃から教科書やニュースが「終戦」という言葉を使うことに違和感をおぼえておりました。今でもそうです。父は、「日本は、戦争する前から負け戦というのはわかっていたし、終戦ではなく『敗戦』である。戦争に行った人間として戦争に負けたことは悔しいけれど、日本は戦争に負けた。」と言っておりました。そういう言葉を聞きながら育ったせいか、「終戦」という言葉が受け入れられず馴染めませんでした。

戦争に負けたことを認めない。謝らない国、僕の国「日本」

歴史的にみても無条件降伏したにもかかわらず、敗戦といわずに「終戦」と言ってしまう僕の国、日本。それが、僕にはわからない。

私たちの国は、食品偽装や不正があった場合などニュースでは、何よりさておき「謝れ」「頭を下げろ」と要求するのが一般的だ。テレビカメラの前で、がん首揃えて「すいませんでした。」とまず揃って頭を下げさすのが通常だ。僕も子どもには、まず悪いことをしたら認めて「謝りなさい!」と強くしかり飛ばします。

それなのに、私たちの国「日本」は、戦争に参加し、無条件降伏して負けたにも関わらず、日本の慣例に従って「すいませんでした」といわない。この事が、どうも良く理解できません。村山談話なるものがある。始めて戦争責任に対して時の首相が認めて謝罪した。大変良いことであったと思う。が、その後の首相や大臣は、これを良きものとせず戦争責任を問われると「村山談話ある。」と言い、自分の意見で戦争責任の是非に対してはちゃんと説明しない。
何故だろう?

戦争に負けたことを認めない。謝らない国、僕の国「日本」

「つるぎをすきにかえ、二度と戦争のことは学ばない。」と言ったのではなかったか。

シベリア抑留体験

馬に乗れる【内田乗馬趣友会】 馬主を取材途中に話がそれて、馬主が、シベリアに抑留された時の話を思い出します。

極寒の中、毎日毎日強制労働をさせられて、三畳もない牛小屋ようなところで四人がすし詰めにされていたそうです。一人はすでに凍死寸前で息絶え絶えで寝たきり状態。
そんな中、一粒のお米を拾ったそうで、嬉しくて嬉しくて仲間のところへ持って行き、一粒のお米を四等分にして食べようと提案したそうです。
そうしたら凍死寸前の方が

「俺はもう亡くなるから、せっかくだから三人で食べてくれ。」

といい、他の方々は「僕らはまだ食べられるから、お前が一人で食べなさい。」というようなヤリトリがあったそうです。涙ながらにその方は、話してくれました。最後は、ツメで壊れないように四等分して食べたそうです。

最後は、その方一人だけが助かって生き残り、日本へ帰還したそうです。
「もう人間は嫌だ。動物がいい。」といって馬を飼育の仕事をなさっておりました。

その方が言うには、
「戦争前と同じ世の中になりつつあります。気をつけてください。」
「二度と、あのようなことがあってはいけません。」
と、別れ際になんべんもなんべんも僕に言い聞かせるようにいいました。
あの方の拝むようなお顔を忘れません。

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